阪神淡路大震災で亡くなられた皆様、またハイチの大地震で亡くなられた皆様に心より哀悼の意を表します。
今日で、あの震災から15年が経過しました。当時私は、国際救援組織である日本国際救援行動委員会のスタッフとして、佐々淳行理事長(元内閣安全保障室長)の指揮の元、アメリカからの対日援助物資の受け取りと神戸への搬送のために、関西国際空港で活動を進めておりました。当初は、海上自衛隊の艦船を使用して、関空から神戸港に運ぶ予定でしたが、港湾労組の反対により、海上保安庁のヘリコプターと巡視艇に積み替えて搬出しました。
その後仲間達と神戸市内に移動し、阪急西ノ宮北口駅で一旦単独で別れ、親族の捜索に当たりました。母が神戸の出身であることから親戚の多くが被災地に住んでおりました。避難所に逃げていた親戚一同の無事を確認した後、仲間たちが先行して活動していた神戸市立本山南小学校避難所に合流しました。この時JR神戸線が西ノ宮駅まで部分開通しており、そこから国道2号線を歩いて西ノ宮、芦屋、そして神戸市東灘区と進み、同避難所にに入りました。辺り一面倒壊した建物ばかりで、それらが歩道にせり出し、やむなく車道を歩きましたが、真横を自衛隊や警察、消防などの緊急車両が走り、上空には数多くのヘリが飛んでいたことを覚えております。
同避難所にはおよそ1500人ぐらいだったかと記憶しておりますが、被災者の皆さんが収容され、全国から集まったボランティアが毎日30名ほど活動しておりました。混乱が増大する中、誰かがリーダーシップを執らなければならなくなり、どういうわけかその役を私が担うことになりました。
避難所本部を組織化し、本部長に住民代表者、その下に私が事務局長に就きました。そしてその元に、援助物資などモノを担当する「物資部」、被災者などヒトを担当する「住民部」、そして避難所自体の運営やボランティア自体の管理を担当する「企画総務部」を設置し、それぞれ部長を任命しました。各部には、毛布係長、食品係長、名簿係長、よろず相談係長、総務係長などを置き、それらの係長に現場の指揮権を委ねる事業部制を敷きました。各係は原則係長一人ですが、例えば大量の食料が運び入れられる時には、他の係長やスタッフが全員食料係長の指揮下に入り行動するなどのプロジェクトチームの要素を取り入れました。
震災の環境下では様々なことが起きました。ある瞬間突然住民が一箇所に集められ、不自由な生活を強いられる、トラブルが起きないはずがありません。体育館の床に敷く畳一枚の取り合いをめぐり高齢者同士が喧嘩を始めるケースもありました。動物愛護法の無い当時において、ペットの受け入れについて様々な意見がありました。避難所が学校ということもあり、学校機能の復旧と避難所機能の充実化の板ばさみになり、ノイローゼを起こしそうになった教職員もいました。活動のあり方をめぐりボランティア同士がぶつかったり、応援に来た神戸市職員が非難の的になったこともありました。「現下の状況は、我々の能力を超えた所にあります。」と素直に話して下さった自衛隊指揮官の言葉に、現実の困難さを再認識したこともありました。
今思えば、住民、ボランティア、学校、警察・消防・自治体などの行政そして、自衛隊などの皆さんが協力し合い、震災直後の"無政府状態"をよく耐えたと思います。本当に皆さんは、すばらしい方々でした。
その中で自分自身はどうであったのかと思うことがあります。自分にはそれまで絶対に起こり得ないと思っていたPTSD(心的外傷後ストレス症候群)を、軽いレベルであったかと思いますが、初めて感じました。震災から8ヵ月後、港区の防災訓練に麻布消防団員として参加致しましたが、作り物と分かっていながら、倒壊家屋などを見た瞬間に、その場にいることを拒絶するような、命令を受けても何も動きたくないような感覚に襲われました。この感覚は一年ほど続きました。
様々なことがありましたが、当時の経験は、その後の中越地震、中越沖地震における救援活動、そして麻布小地区防災協議会による震災マニュアル作りに生かすことが出来ました。
一方当時活動を共にしたボランティアや住民の皆さんと、今でも毎年この時期になると、炊き出し同窓会や再会の集いが行われております。私も今大阪でこの記事を書いております。
今日は犠牲者を追悼したいと思います。
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